昭和50年05月02日 朝の御理解
御理解 第24節
「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞその身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心と云う事を言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力を揃えれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中勢を揃えた信心をせよ。」
人に誘われてとこう言うとられる。始は誰でも人に誘われてであります。それではこの人に誘われてと云う事は、まあ誰々さんに誘われてお参りした。そしておかげを受けて、段々信心になって行く訳で御座いますけれども。ここはおかげに誘われて、言うならばしょう事なしのそういう信心では、つけ焼き刃の信心じゃと言う風に聞いて頂きたいです。けれども私は、本当にここん所を思いますのにね。
あの人に誘われてと云う所をおかげに誘われてと云う風に切り替えたら、もう大概の人がこのおかげに誘われての様ですね。ですからおかげがおかげでない反対の事になると、ぽろっと取れてしまう、つけ焼き刃の信心。そういう信心は、自分の思う様にならぬと神様に不足を言う様になる。どうぞその身から打ち込んでの真の信心と、頂いとられます、ね。その身から打ち込んでの真の信心をせよ。ね。
或る人が熱心に当時の椛目に参って来た。息子さんがそれに反対する。あんたばっかりはもう椛目、椛目ちゅうちからもう、金光さんにばっかり参ってからと、そしたらそのお母さんがね、息子に言いよんなさる。それを隣の人も一緒に参りよんなさるから、聞きよんなさった。そしたらどう云う事を言われたかと思いよると、私が好きでばし椛目に参りよると思いよるの。あんたどんがおかげ頂かんならんけん参りよるとばい。
それを聞いて隣の小母しゃんはこげな事言い御座ったという、お届けを聞いた事があるです。私はこの人の例を何時も話ますけども、言葉には出さんでも同じ様な信心をしておる人が沢山ありはせんでしょうかね。こん朝早うからとても眠うしてから、しかもお金まで要るとに、それこそ好きでだん参りよらんばの。おかげ頂かにゃならんけん参りよると。と云う様な信心を私はおかげに誘われての信心だと思いますね。
だからそれではねそのう説明の、言うなら話て聞かせる訳にもいかんです。おかげという、只おかげ頂くけん参らんのじゃ納得いかんです。そりゃおかげも有難いです。けど真の信心が身に付いて行くと言う事がね、有難いから尊いから、という信心にならんと身に徳が付きません。おかげに誘われての信心、それはです云うならばつけ焼き刃の様な信心。自分の気に入った事、自分の思う様になるとああ、あらたかだおかげだとこう云う。そしてまあいうなら熱狂的な信心も出来る。
言うならば人がたまがる様な信心も出来るけれども、今度は一旦反対になって来ると、自分の思う様にならないと、参ったばってんおかげ頂ききらじゃったというて、ぽろっと止めてしまう。又は神様に不平を言い不足を言うよになる。もうどんな場合だって、神様に不平どん不足どん言うだんじゃないです。金光様の御信心ばっかりゃ。お取次を頂いて起きてくる事もう確かに全てが良いこと悪いことの様に見えておっても、みんな良い事です。解れば解る程。
どんなに根の深い信心です、真の信心と言うのは、誰だって始の間は、おかげに誘われて参ります。始の間は人に誘われて、しようことなしではありますけれども、段々信心が解って来れば、来る程真の信心にその身から打ち込んで来ると云う事にならなければなりません。是はどうでも皆さんの様に熱心に、こうやって朝参りを続けておられる方達はね、ここを愈々解らんとです、私はほんに○○さんの話じゃないですけれども、好きでばし参りよるとあんたどんがおかげ頂かんならんけん参りよると。
本当におかしな話ですけども、厳密に自分自身の信心を検討して見ると矢張り、五十歩百歩、矢張りおかげに誘われてお参りしておる。参りゃ参るがとあるというて参って来よる。それもあってよしいけないのじゃないです。 けれどもねそこからもう一つ、脱皮するというか、もう一段進めてです、真の信心とは真の信心とはと言う所に、私は信心の精進がなされなければです、もう第一改まろうとしないです。
研こうとしないです。御理解を真から頂こうとしないです。不思議に。ね。真の信心が解ろうと精進すれはする程、その精進の焦点というのが本心の玉を研く事以外にゃない。日々の改まり以外にゃないそれでも尚且つ、解らんから御理解を本気で頂かねば居られないと云う事になるのです。昨日此処をさがらせて頂いておりましたから、もう十時頃だってでしょうか散髪を終わった後でした電話が掛かって来た。前の日にお参りをして来た方なんです。ある教会でまぁ云わば熱心に信心をしておられた模様です。
所がそのう御主人の結婚をされる前に心やすうしておられた女性の方が、御主人が亡くなられた。それで本当にあの人は気の毒な人だから、ね家ぐるみでお付き合いさせて貰うじゃないかというて、嫁さんに話してそして、もう子供さんも大きなのがおられますからね、その家ぐるみの云わばお付き合いをしょった。所がそれこそ遠くて近きは男女の仲と云われる様にね、何時の間にかその心やすうしとった人でもあるもんですから、何時の間にか出来とった。
そういう所からです、愈々まあいう家騒動になって来た訳で御座いますけれども、お参りを頂くと先生が辛抱しろ辛抱しろと。ね。是はまあ誰でもそういいますがね、大きな子供ももう居る事だからね、子供の為にでも辛抱してそしてまあ相手も助かられるごというて、まあーお祈りもしお願いもしよった。所がね只辛抱だけじゃいかんごとあるですね。信心辛抱になからねば、自ずとしたおかげになって来ない。或る時に高校二年生になられる娘さんがおられる、ならお父さんが御飯の時にお替わりをしよる。
そしてその御飯をお父さんに渡せばよかったけれども、一寸手前の方に置いてハイとまあ置いたわけです。そしたらお父さんがかんかんになってね、その怒られてもうお前のごたる奴は出て行けというて怒られた。さあ其処で云うならば親子三人の、その時分奥さんは物言わんごとしとったけれども、あまり娘がやかましく言われるから自分も出て、娘とお父さんと三人の喧嘩になった。
でその事を又先生にお取次を頂いた所が、先生が言われる事にです、もうそげんまで親子の仲まで冷うたっとるごたるならば、別れなさいと云わっしゃった。裁判に掛ちから別れろとこう云う事です。だから裁判に掛たさあ所が今度はもう愈々こんがらがって来た。返って反対に向こう方の女の方の親戚の方達がです、やって来てから「あんたがその家内としての勤めが出来んから、私げがこげなふうで引き出されたと、どうしてくれるか」と、逆ねじ食わされる様な事。
辛抱しとったのが悪かったというのです。ね。参ったら辛抱しろ辛抱しろと言われるから辛抱した。ね。もうそれこそもうどうにもこうにも仕様が無いのを或る方がそれを聞いて、お参りをして見えられた。一昨日です。夕べのお月次祭にも参って見えた。そこからハイヤ-で来るなら三千五百円片道でかかる。それでも自分の心が救われる。喜びというか有難さと云う物は又とても金銭じゃないと云う事なんです。
夕べの月次祭に参って来てました。私はそれこそずうっとその話を聞かせて頂いたが、それこそ聞くも涙語るも涙、本当に貰い泣きするごとやっぱり辛抱しちゃるです。自分も涙ながらにそれをまぁお取次を頂くというよりもお話をなさいましたここで。それで私は聞くだけ聞いて、もうどうにもこうにも出来ん所になっておる。だからここではどうでも裁判に勝たなきゃならない所で御座いましょうけれどもです。私が申しましたもうここまで来ておる事だから、此処からのおかげ今日からのおかげをです願いなさい。
だから此処からのおかげを頂く為にはその裁判と言う物はです、勝つとか負けるとか右とか左ではないですよと。もうどちらになっても合掌して受ける。拝んで受けると言う気になれと私が申しました。勝ち負けじゃないもう出たとこ勝負なんだ。そこを御神慮と思うて、本当いうたらそげな別れる裁判したらいけじゃったとじゃろうけれどもね。縁あって子供が向こうにも大きな嫁さん貰わにゃんごたるとがおる。こちらにも高校何年ごたるとがおるとじゃからね、今更夫婦別れるてんなんてんなかろうけれどもです。
その裁判で言うならば勝つとか負けるとか言う願いでなくて、その結果をどう云う事であろうが、もう合掌して受けると云う気になる。それが信心だそれが気感に適うのだ。それが真の信心だと私が説かせて頂いたら、もうそれこそもう迷いに迷い苦しみに苦しんでおられる人が、やっぱり信心してあるからですね。ああそうじゃったと気付かれた感じでしたよ。そしてなら翌日の、昨日の朝電話が掛かって来ました。
そしてねこう云う事を頂かれたて「今までの信心は山吹の花」と誰かが教えられた、お夢の中で「これからは花も実もある信心ぞ」と云わっしゃった。神様じゃろうと云う事ですよ。例えば今まで悩みに悩み苦しみに苦しみ、どうしょうない。此処ではどうでもこうでも、この裁判に勝たなきゃ子供達の為にも勝たなければと云う事じゃった。だから私はその裁判の所謂出る答えがどう言う答えかしらん。
もうこんがらかって言うならば信心では、真の信心ではない生き方をして来ておるから、こういう結果になるんだと私は思うたから、是からは真の信心をさせなければいけないと思った。そこでんなら其処ん所は右、左じゃない出た所そこを合掌して受ける心を今日は作って行けと。もう今までのもう一切、こんがらがった悩み苦しみと云う物が、もうその腹が出来た途端に楽になった訳です。ああそれが御神慮ならばそれを右、左と言わずに頂く事に決め様と腹が決まった時に、そういう腹になった。
だから今までの信心はね、そのお夢の中に昨日の朝頂かれとるお夢の中に、今までは花は咲けども山吹の花といのには実が稔らない。私はそういう信心をならお互いがしてはおりゃせんかと。成程合楽ではおかげは受ける。だからそのおかげだけの信心はです、おかげに誘われての信心はです。山吹の花の信心です。どうでもその身から打ち込んだ信心を頂かねばです、真の信心は解りません。おかげを受けたら、にこにこ受けなかったら神様に不足を云うと言う様な心は真の信心ではない。
降る事もおかげなら照る事もおかげだ。即おかげだと解らせて頂ける程しの、昨夜の月次祭の御説教の中にも聞いて貰ました様にです。そこの心が開けて来る様なね、私は信心を身に付けて行けなければいけないと思うです。それこそ花も実もある信心、そういうおかげの受けられる信心。そういう信心を導かれておるのですから、誰だって始はおかげに誘われての信心ではあるし、云わば人に誘われてではあるし、ですから云うならばしよう事なしと云う事でもありましょう。
けれどもそういう信心をさせて頂いておったんでは、山吹の花の様な信心にしかならんのだから、折角させて頂くならば花に又実がそうて来る様な、おかげを頂く為にです、お互いの信心が真の信心を目指さなければいけないと云う事です。真の信心が実に付いて来る所からです、もうしよう事なしではないです、ね。それこそその身から打ち込んだ信心が出来る様になるでしょう。そうなればですもうそういう信心には付いて来なければおられないです、主人が信心するなら家内が付いて来るでしょう。
夫婦が信心するなら子供達が付いて来るでしょう。一家を挙げて信心させて頂いたら、親戚中が付いて来るでしょう。そこから例えば同んなじ願いの元に、勢を揃えた信心。私は今日はこの勢を揃えた信心をと云う所がです、そういう真の信心をさせて頂く者が勢を揃えなければいけない事を改めて又気付かせて貰った。只一家中が信心しとるというてもです、方向が違う右向いて信心しよるともおれは、左向いて信心しよるとも居る、それではいうなら、どんなにかけ声を揃えても掛け声が揃わない。
本気で一つ真の信心を目指さして貰、しかもその真の信心が一家を挙げての愈々、何かと言う時には勢を揃えて信心が出来る様な、信心を身に付けて行きたい。おかげに誘われての信心ではないか、言うならば人に誘われてのしようことなしの信心ではないか、そういう信心は付け焼刃的な、ね。必ずもろい、取れるそういう信心では、花も実もあると云った様なおかげにはならんと思います。どうぞ折角信心させて頂くのですから、花も実もあるおかげ頂かしてもらう信心を身につけて行きたいですね。
どうぞ。